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【観想】コロナ禍と財政民主主義
―人文社会科学部?掛貝祐太講師

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 365体育备用网址_2024欧洲杯竞猜@の研究者はCOVID-19で変化した世界をどう見ているのかを、率直な対話を通じてシェアする「観想―WITHコロナの世界」。第3回は財政学が専門の人文社会科学部?掛貝祐太講師。多くの施策が国民投票にかけられるスイスをフィールドとして財政民主主義の研究を進めてきた掛貝講師の目には、日本のコロナ対応がどう映っているのでしょうか。(聞き手:365体育备用网址_2024欧洲杯竞猜@広報室?山崎一希)

支出規模は大きい日本のコロナ対策

山崎 まずは一連の日本のコロナ対策について、財政論からはどんな点が特徴だといえますか。

掛貝 既存の社会保障の枠組みで支出されるものもあるので計算は難しいのですが、どの推計においても、日本は支出規模としては大きいだろう、というのが共通意識になっていると思います。補正予算でもあわせて60兆円近い支出、一般会計の当初予算約100兆円の約6割ですから、かなり大きい額といえますね。

山崎 安倍前首相が「世界的に最大級」と言っていたのも、あながち嘘ではないわけですね。

掛貝 そうですね。でもそれは多くの人にとって意外なのではないかと思いますし、100%満足しているという人もあまりいないと思います。GO TOキャンペーンとか、マスク配布とか、持続化給付金をめぐる民間業者委託とか、費用対効果や妥当性について疑問の声もありましたよね。規模としては大きいのだけれど、コロナ対策という名義で別の要素が入ってきていたり、タイミングの問題だったりと、中身をよく見ると問題があります。
 その中で、僕としては、自分の研究にも引き寄せる形で、「財政民主主義」と「申請主義の壁」という2つのトピックが露わになってきたなと思っています。

山崎 財政民主主義、ですか。

掛貝 本来的には、税金はみんなのお金で、その使い方はみんなで決めようというのが原則ですよね。でも自分の税金が自分の思うとおりに使われていると実感できる人は、果たしてどれだけいるでしょうか。

山崎 その感覚は薄いですよね。

掛貝 政治的有効性感覚という指標があります。自分がどれだけ政治に対して影響力を行使できているかという指標です。これが日本は非常に低い。補正予算の10兆円というのは予備費として国会の審議を必要としない形(事後承諾)で盛り込まれ、うち5兆円は使途も不明で白紙委任のような状況なわけですから、その中でちゃんと使われていると感じるほうが難しいと思います。

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財政民主主義と日本の社会

山崎 そうした財政に対し、市民がより積極的に関与していく仕組みが必要、ということですよね。具体的にはどういうイメージですか。

掛貝 たとえばスイスの場合は、国民投票が年に4回、15項目ぐらいに対して行われます。その中には、「動物愛護の観点から牛の角を除去しないような飼育をしている農家に対する補助金について」といったごく一部の人しか関わりのないものや、「戦闘機のこの機種をこれだけ買います」みたいな専門的知識が必要なものもある。こうした国と日本では、どうしても政治的有効性感覚は違ってきますよね。

山崎 確かに日本において「財政民主主義」ということを意識する機会はほとんどないですね。政治的有効性感覚は、税金の使途に対する不信、政治不信とも深く関わっていると思いますし、8年近く続いた安倍政権ではそうした疑念をもたれるスキャンダルも続きました。その意味で財政民主主義の弱さというのは、そのときどきの政権の性格にも関わるかも知れませんが、一方で日本の社会に構造的な原因があるようにも見えます。

掛貝 日本で財政民主主義が実質的に根付かなかったことについて、2つほど説明が考えられます。ひとつが、政治学でかつて言われてきた「日本型多元主義」という捉え方です。省庁間の予算の取り合いによって利害の盛り込みや調整が代理的になされている、という考えですね。政治エリートだって利害が多元的なんだから、彼らによって代理的に財政民主主義が機能しているのだ、と。しかしこれは後に批判されていきますが。
 もうひとつは教育の問題です。財政?社会保障教育の責任というものがあると思っています。小中学校で納税の義務の標語を書いたりしますが、日本の租税教育ではそういう義務的な側面だけが強調されてきました。社会保障制度を権利として捉える文化とか、それを支える教育があまりなされてこなかったと考えています。

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山崎 さまざまな民主主義、あるいは政治参加の形がある中で、「財政」民主主義とわざわざ括る意味合いがまだピンと来ていないのですが、確かに政治の議論をする際に、それがどのぐらいお金のかかるものなの、という視点は抜けがちになってしまうかも知れません。

掛貝 権丈善一先生が「計数感覚のない善良な市民」という言い方をされています。予備費が何兆円、とか言われてもどのぐらい大きな金額なのかがイメージがつかない。

山崎 確かに100万円とか超えると、もうどうでも良くなってきちゃう(笑)

掛貝 100万も1億も1兆も、ただ大きい額としてしか捉えられず、100万円でも「無駄」と感じたら「削れ」となってしまう。必要な額と無駄かもしれない額というのとでは規模が違うのですが、どのぐらいの規模なのかというイメージが共有されていない、ということが結局税金の負担感につながっていると思います。

山崎 それは日本だけの問題でもなさそうですが...

掛貝 日本だけではないと思いますが、たとえばオランダでは、各党のマニフェストの政策に対して、これだけの財源規模が必要で、これぐらいの予算になります」というような財政的な影響に関する見通しを、専門機関が評価して出すことにしているそうです。また、スウェーデンの中学校の教科書では、「自分の自治体の予算がどういうふうに使われているか調べてみましょう」といったケースワークもあるので、そういうふうに係数感覚を育てている側面はあるかと思います。

ミクロバジェッティングとマクロバジェッティング

山崎 政治においてそうした面を意識すると、財務省が強い力をもつことにつながりそうです。一大学人としては、財務省の言い分に違和感をもつことも多々あるわけですが(笑)

掛貝 財務省が影響力をもつというのはそのとおりです。必要なものがこれだけ、この政策をするのにこのぐらいの予算が必要、というのを積み上げて予算を作っていくのを「ミクロバジェッティング」と呼ぶのですが、日本の場合はそれとは違って、財務省がこの分野はこれぐらいという大枠をまず示し、その大枠の中で予算を組み立てていく「マクロバジェッティング」というやり方になっています。大学の予算に話を置き換えるなら、ある非常勤教員を雇うというときに、その教員がこういう専門性でこういうキャリアだからこの給料にしよう、というのではなく、まず大学教育全体にかかる予算から出発して、その結果、非常勤教員に割けるのはこのぐらい、というふうに決まるわけです。

山崎 ミクロバジェッティングとマクロバジェッティングですか。その違いが財政民主主義のあり方にも関わっているようにも思いますね。

掛貝 たとえば「大学もお金がないからしょうがないよね」というのはよく耳にする言説です(笑)実際、高等教育にかけられている予算は、日本は他国より低い水準ですけれど、「予算が限られている」ということで思考停止してしまっている面はあると思います。
 先日授業でふるさと納税の問題点について話したとき、リアクションペーパーに「でも偉い人が決めたことだから仕方がないと思う」という回答があって驚いたのですが、そういう「制度や財政のあり方は変えられないものだ」という心性が結構存在しているんじゃないでしょうか。

山崎 そういう話を聞くと、「もう少ししっかり考えなきゃダメだよ」と思ってしまいますが、実はそういう若者たちはきわめて真面目で、「不勉強な自分が生半可な気持ちで投票したら申し訳ない」という気持ちから投票しないのだ、という調査結果も最近目にしました。

掛貝 「経済的な力をもっている人が政治的な力をもつべきだ」というメンタリティもあると思います。低収入で国の税金からたくさん支援を受けている立場だから文句が言えない、みたいな。本来、政治的自由は経済的自由とは別なのに、経済的自由のほうに絡めとられてしまっている。

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申請主義の壁

山崎 それを克服していく手段が、ひとつは財政?社会保障教育の充実ということですね。さて、コロナ禍で見えた日本の問題のもうひとつが「申請主義の壁」ということでした。こちらはどういうことでしょうか。

掛貝 社会保障制度を利用する国民の側が、申請のための大きな負担を強いられるという問題です。このコロナ禍でもいろんな施策が総花的に打たれているのですが、自分がどういう制度でどのぐらい支援をもらえるのかを調べること自体もそれなりに大変ですよね。お年寄りの方などは特にそうでしょう。「病気で働けなくなった時の給与保障保険」のような民間保険が出てきたのも、その背景には、公的な社会保障制度を把握できていないという問題もあると感じています。そもそも、公的な制度として傷病手当金という制度がある訳ですが。

山崎 確かに学生向けの経済支援プログラムなどを見ても、並べてみるとそれなりに手厚いのだけれど、なんともわかりづらい。これには当然、行政の縦割り構造という問題もあると思いますが、根源的な政治風土も影響しているのではないでしょうか。菅総理も「自助、共助、公助」というメッセージを掲げていますが、日本の場合はまさに「自助」、まずは自己責任でどうにかしろ、困ったら申請してこい、という規範意識が強いですよね。

掛貝 それはISSP(国際比較調査)のような価値観調査でもあらわれていて、たとえば日本人は、格差改善や高等教育の提供に対する政府の役割をかなり低く捉えている。高度経済成長期以来「自助」を重んじてきたあり方が、こういう社会保障制度を作ってきたというのはあると思います。

山崎 もうひとつはデジタル化の問題ですよね。政府としてはマイナンバー普及を呼びかけていますが、未だに普及率がなかなか上がりません。

掛貝 日本の場合は、たとえば失業したときに「このサイトを見ればいい」というようなワンストップの情報提供の場がまだまだまとまっていません。マイナンバーの統合の問題の前にまだまだいろんな問題を孕んでいるのではないでしょうか。

山崎 デジタル化による申請主義の打破というと、マイナンバーと口座情報が結びつくことで、一定のアルゴリズムを入れれば、自動的に給付金が振り込まれる、というイメージでしょうか。

掛貝 アメリカの場合はほぼ全員が確定申告をするので、そのときの口座に基づいて一斉に給付するというやり方をしていますね。
 一方、別のアプローチとして、現金給付ではなく、現物支給でそれを無償化する、という形で申請主義を乗り越えることもできます。高等教育も本当に無償であれば、現金給付のための手続きは必要ないわけですから。所得制限がかかると、結局申請コストや差別の問題も生みやすくなりますしね。

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熟議をどうつくるか

山崎 なるほど。それとも関連すると思いますが、コロナ禍を通じて、ベーシックインカムの議論も改めて出てきました。私自身は、日本のような自己責任の風潮が強い社会においては、ベーシックインカムはリスクがあるように感じていますが先生はいかがでしょう。

掛貝 僕としては実現性が低いと思いますし、格差是正に対してプラスにも働かないと思っていますが、スイスでは実際にベーシックインカムが国民投票にかけられています。否決されましたけど。

山崎 空想レベルではなく、投票ということであれば、メディアも真剣に取り上げますね。ちなみにそういう重要な決定というのは、新たな国民投票によってまた変更になることもあるのですか?

掛貝 それはむしろよくあることです。署名を集めて国民投票にすぐかけられ、それがストレートに通るということはほとんどなくて、妥協案がだんだん模索されているということを繰り返しています。

山崎 日本では、一度決めたことは修正できないという諦め感も強いように感じます。「修正し得る」と考えていたほうが、良い意味で一回一回の政治参加へのハードルが下がる気がします。

掛貝 「闘技的民主主義(agonistic democracy)」という潮流があるのですが、これは完全な合意というのは成り立たないのだから、合意を探っていくことが民主主義なのではなくて、不合意、つまり異議申し立てに対して開かれていることが民主主義なんだ、という考え方をします。そのときそのときの暫定解を出していくという。

山崎 台湾などを見ていると、そうした合意や討議の可能性が、デジタル技術によって大きく広がったようにも見えますが...

掛貝 確かにいろんな技術はあると思いますが、結局は使う側の問題ではないでしょうか。民主主義の成功体験を積み重ねないと、どういうツールが出てきても熟議や異議申し立ては難しいのではないかと思っています。

山崎 さきほどの教育のあり方も含めて、「実践」「経験」が不可欠ということですね。

掛貝 ジェームズ?スコットという、アナキストを自称している学者がいるのですが、彼は来たるべきときに自分の信念に従ってルール違反をおかせるよう、毎日日常レベルで小さな逸脱―信号を無視するとか―を重ねているそうです。「アナキスト柔軟体操」と言うそうですが...。結局、そういう小さな実践を重ねていくことが、より大きな民主主義につながっていけばな、と思うんですよね。

山崎 アートは本来そういう力をもっているものですよね。一方で、マスクを外すという逸脱さえ難しい日本の社会の中では、その柔軟体操もかなりしんどそうです。

掛貝 社会運動論が専門の富永京子先生による「みんなの『わがまま』入門」という本も話題になりましたが、そこでは、どうして職場や学校でわがままを言うのが難しいのか、ということを分析しています。日本は社会運動やデモの有効性感覚も低いわけですが、どうしたら「わがまま」になれるのか、ということに寄り添って書かれています。

山崎 日本の場合は、集団への抵抗や逸脱を「わがまま」という言葉でしか表現できないことが問題なんでしょうね。「わがまま」というのはある種権利であって、重要なのはそれをきちんと言語化されていたり、デモに参加するといった具体的な行動への適切なガイドがなされていることだと思います。

掛貝 僕はナチュラルボーンなわがままなんですけど(笑)、学生たちは意外とそうでもない。もう少し自由を求める方向に向かって、「変えられなくて当然と思っている制度や慣習も、実は当然じゃない」という問題提起をしながら、草の根的に日々授業をしています。

掛貝祐太(かけがい?ゆうた) 人文社会科学部講師

専門は財政学、スイスの財政民主主義。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学経済学部助教(有期)等を経て、 20204月より現職。近刊に、「申請主義と財政教育 税と申請を権利として捉えるために(特集 危機の中で財政を考える)」『生活経済政策』(282) 18 - 22 2020620日、「スイスの第10?11次年金改革における政治的コンセンサス」『社会政策』 11(1) 20196月。https://researchmap.jp/y.kakegai

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